現代を生きる私たちは、戦争を知らない。社会科の授業や、新聞・テレビなどのメディアを通じてなんとなく知った、そんな人がほとんどだろう。または、戦争を経験してきた先人たちが語る“当時”の話を聞いたという人もいるかもしれない。
第二次世界大戦の終戦期を、20歳で経験した人も、今や90歳。残念なことに、先人たちの話を直接聞ける機会も、徐々に減っていくだろう。終戦から70年という節目に、私たちがいま知っておくべきこと。それは、もしかしたら教科書には載っていないことなのかもしれない。戦時中に起きていた、知られざる7つの真実を紹介する。
1.戦争で命を落とした人数は?
戦争で、大勢の人が死んだ。それは一体どのくらいの人数なのだろうか?
第二次世界大戦は、1939年〜1945年までの6年間、人類史上最大となる世界的規模の大戦争。この間、犠牲となった命は世界で5000万〜8000万人とされている。そのうち、民間人は3800万〜5500万人、軍人の被害者は2200万〜2500万人。
日本が第二次世界大戦に参戦したのは1941年のこと。この戦争における、日本人の死者は230万人〜310万人にもおよぶ。日本史上、未曾有の死者が出た。
230万人――。これは東京の渋谷区・新宿区・目黒区・世田谷区・杉並区を合わせた人口とほぼ同じだ。そう言われてもピンとこない人もいるかもしれないので、230万人の参考になる比較例をいくつか紹介する。
当時の平均寿命は23.9歳だった。死者の中には、軍人のほか、乳幼児も多く含まれるため、これほど低い数値になった。少なくとも死因の3分の1は食糧難による餓死ともいわれている。また、飢餓による病死を含めるとさらに 広範にわたる。このほか自殺も多かったという。
2.なぜ戦争は始まったの?
[写真:Paul Walsh/Flickr]
世界各地で行われている反戦運動。これだけの死者が出てしまったのだから当然だ。だとすれば、そもそも戦争はなぜ起きてしまったのか?
第一次世界大戦で、戦勝国となった日本とアメリカは、世界恐慌による不況を解決しようと新たな市場を模索し、アジアに目を付けた。
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1931年 資源の少ない日本は資源確保のため、東南アジアや中国大陸に利権を得ようとした。さらに、ソ連の南下に備えるため、朝鮮半島とのソ連との間に緩衝地帯を作り、国内の貧民が入植できる土地を作ろうとした(満州事変・上海事変)。
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アジア諸国に進出していく日本は、当時、利権を持っていたアメリカ・イギリス・オランダと衝突するようになる。
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1937年 満州事変以降、中華民国と対立していた日本は戦争を始める(日中戦争)。アメリカは中華民国に秘密裏に軍事援助を行いつつ、日本に経済的圧力をかけた。
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1941年 アメリカの経済圧力に苦しみ始めた日本は、物資を確保するために東南アジアに出兵する(南部仏印進駐)。これに対し、アメリカは中華民国などと連携し、日本に対する鉄鋼・石油の輸出を禁止する(ABCD包囲網)。石油がなければ、すべての産業がストップしてしまう当時の日本はさらに窮地に陥った。
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緊張が漂う中、日本は対米交渉を行いながら密かにアメリカとの開戦準備に入る。しかし、アメリカ側も水面下で準備を始める日本の行動を察知し、他国への内政不干渉、太平洋の現状維持などを求める「ハル・ノート」を突きつける。(アメリカの国務長官コーデル・ハルの名前からそう呼ばれた)
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「ハル・ノート」の内容に絶望した日本側は「開戦やむなし」に傾くことになる。
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1941年 12月8日に日本はハワイ真珠湾を攻撃する(真珠湾攻撃)。戦争の火蓋が切って落とされた(太平洋戦争)。
3.日本軍は一枚岩じゃなかった? 陸軍と海軍の不和
日本軍は一致団結し、この戦争を戦ってきた――。わけではなかった。
戦後70年を迎えるこの夏に公開される映画「日本のいちばん長い日」では、終戦時の陸軍と海軍を中心にした日本軍の内部抗争が描かれている。陸軍と海軍は、なぜこんなに仲が悪かったのか?
理由その1. 「発祥の違い」
幕末の頃、陸軍は長州藩、海軍は薩摩藩を中心に発足した。創設からライバル関係にあった上、両軍を統一指揮する国防省がなかったため、太平洋戦争の末期まで対立関係が続いていた。
理由その2. 「戦略方針の違い」
日本の陸軍はフランス軍とドイツ軍を、日本の海軍はイギリス軍を模範として発展してきた。そもそもの軍事教育に違いがあったのだ。また思想として、現実主義の海軍に対して、理想主義の陸軍は、海軍から見るとやや“暴走気味”に映ったとも言われている。
理由その3. 「資源・物資」の取り合い
戦時中の日本は、国家予算に対し、身の丈に合わない軍備を揃えなければならない状況にあった。軍事予算は折半であったと言われているが、限られた資源や物資は当然のように取り合う形になった。
さらに、戦闘機などの技術開発や、諸外国による謀報活動や情報収集なども、陸軍と海軍は別々に取り組んでいた。そもそも資源が少なかった日本の敗因は、“軍内の不和”だけではないが、国家の軍事として非効率だったことは言うまでもない。
4.「死にたくない」〜徴兵は断れなかったの?
国家が国民に対し、軍に兵役することを義務付ける「徴兵制」。日本では明治維新以降の1873年に国民皆兵を目指す徴兵令が出され、のちの兵役法となった。これが1889年の大日本国憲法(第20条)にも盛り込まれた。
男性は20歳になると、身体検査を受けることが義務付けられ、合格した人が徴兵対象となった。しかし太平洋戦争の末期は、兵員不足のため、検査の結果が「身体頑健」でない場合も、徴兵されることがほとんどだったという。兵役を命ずる“赤紙”が自宅に届いたら、入営しなければならなかった。
出撃前に最後の盃を交わす特攻隊員
戦死を前提のうえで敵に向かって自爆攻撃する「特別攻撃隊(特攻隊)」は、軍隊の中から志願した人たちで編成されたが、「志願しないことが許される雰囲気ではなかった」という生存者の証言も多い。断ることもできたが、その後、部隊内で壮絶ないじめが待っていたという話もある。また、奇跡的に生還した場合は、施設に収容され、再び攻撃に出るための訓練が行われた。防衛研究所によれば、特攻に参加したおよそ3300機のうち、敵艦に到達したのはたったの1割だったという。
5.「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」? 戦時中の食事の実態
「欲しがりません、勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」――。太平洋戦争下の日本では、国民の不満を抑圧するためにこうした標語が生まれ、ポスターが街に貼られていた。
太平洋戦争が始まる前は、都会と田舎では、貧富の差が大きかった。食料が豊富な都会では、西洋の文化が取り入れられ、食文化も華やかだった。一方、農村では、米を作っているにもかかわらず、収穫のほとんどを物納させられ、収入を得るために売っていたため、米を主食にすることは困難だった。しかし、太平洋戦争が始まると、都会と農村は逆転する。米や野菜を作っている農村のほうが、自給自足による食材の確保が可能だったのだ。
斎藤美奈子さんの著書「戦下のレシピ――太平洋戦争下の食を知る」(岩波現代文庫)では、戦時中に発行されていた婦人雑誌のレシピを紹介し、当時の食生活の実態に迫ろうとしている。当時、各家庭では小麦粉で作られたうどんや「すいとん」が食されていたそうだ。また米不足を乗り切るために、お粥、米に雑穀や芋などを混ぜた「かて飯」など工夫された「節米料理」が婦人雑誌などで紹介され、各家庭で食されていたという。米不足に対応することを、国が国民に求めたことで“メディアもあおっていた”というのが実情のようだ。
その後、国は自主性にまかせた節米運動をあきらめ、ひとり当たり決まった量の米を分配する「配給制」に切り替える。当時はあらゆる生活物資が配給制だった。
しかし戦争が長引いてくると、配給も徐々に滞るようになる。食材の調達はさらに困難になり、道端の雑草さえも、貴重なビタミン源として摘みつくされてしまったのだ。
一般市民にとっては、「飢え」自体が「戦争」そのものだったとも言える。
6.「ポツダム宣言」のあと、日本で何が起きていた?
1945年になると、日本は、東京、横浜、神戸など都市部を中心に、次々と空襲に見舞われる。4月にはアメリカ軍が沖縄本島に上陸し、6月に沖縄をほぼ占領した。
日に日に戦況が悪化していく日本に対し、降伏を勧告し、戦後処理の方針を表明したのが「ポツダム宣言」だ。ポツダム宣言は1945年7月26日、ドイツのポツダムにおいて、アメリカ・イギリス・中国が発した対日共同宣言である。(「ポツダム宣言」現代語訳の全文はこちら)
ポツダム宣言には、日本がこれを受け入れない場合、「壊滅あるのみ」と記されていた。アメリカ軍は8月6日に広島、9日に長崎に原爆を投下した。さらに、8月9日にはソ連が日本に対し参戦した。
陸軍があくまで「本土決戦」を叫ぶ中、昭和天皇は8月14日の御前会議で、ポツダム宣言を受け入れて降伏することを決意する。8月14日の御前会議から8月15日正午の玉音放送までの24時間。それは日本の「もっとも長い一日」とも言われる。陸軍内部によるクーデター(宮城事件)が起きていたからだ。
[Wikimedia]
昭和天皇は、かつて侍従長として仕えていた当時77歳の海軍大将、鈴木貫太郎を総理大臣に任命した。降伏に反対し、徹底抗戦を唱える陸軍では、一部のメンバーが鈴木内閣を打倒する計画を進めていた。
宮内省では、昭和天皇と日本放送協会(NHK)が録音した玉音放送のレコード盤が保存されていた。終戦に反対する陸軍の一部は、玉音放送のレコード盤を破壊し、終戦宣言を阻止しようとしたのだ。首相官邸は襲撃され、火を放たれる。
陸軍少佐である畑中健二(当時33歳)は番組の乗っ取りを図るが、この攻防の末、無事に玉音放送は流され国民に終戦が伝えられたのだった。
当時のほとんどの国民は知ることのなかった宮城事件。全国民の未来を左右することになったこの日の全貌は、映画「日本のいちばん長い日」で描かれている。
7.終戦を知らせた「玉音放送」で、昭和天皇が語ったこと
[Wikimedia]
こうして戦争は終わった――。1945年8月15日正午に、昭和天皇が終戦を知らせる「玉音放送」がラジオで放送され、国民は戦争に負けたことを知ることになった。
昭和天皇が語ったこと。玉音放送の現代語訳は以下のとおりだ。
世界の情勢と日本の現状を深く考えた結果、緊急の方法でこの事態を収拾したい。忠実なあなた方臣民に告ぐ。(省略)
戦争は4年も続き、陸海将兵の勇敢な戦いぶりも、多くの官僚の努力も、一億臣民の奉公も、それぞれが最善を尽くしたが戦況はよくならず、世界情勢もまた日本に有利ではない。その上、敵は新たに、残虐な爆弾を使用して多くの罪のない人を殺し、被害の及ぶ範囲を測ることもできない。このまま戦争を続ければ、日本民族の滅亡を招くだけでなく、人類の文明も破壊してしまうだろう。(省略)
これから日本はとてつもない苦難を受けるだろう。臣民のみんなが思うところも私はよくわかっている。けれども私は、時の運にも導かれ、耐えられないことにも耐え、我慢できないことにも我慢し、今後の未来のために平和への道を開いていきたい。(省略)
あなた方臣民は、これらが私の意志だと思い、実現してほしい。
映画「日本のいちばん長い日」では、昭和天皇が玉音放送で読み上げる原稿の“一言一句”を巡って、当時の閣僚たちにより議論が交わされるシーンが描かれている。玉音放送の“玉音”とは、“天皇の肉声”のこと。玉のように清らかな音や声を意味し、敬いからそう呼ばれた。(「玉音放送」現代語訳の全文はこちら)
当時の国民は、静寂の中、この玉音放送を聞いた。国民たちは、一体なにを思ったのだろう……?
「子どもや孫たちに伝えたい」と戦争を語り伝える活動をしている田中翠さん(88歳)は、女学生のときの戦争体験を綴った著書「プロペラ工場の中で」で、当時17歳だった70年前の8月15日、玉音放送を聞いた感想をこう記している。
八月十五日 ポツダム宣言受諾。
三千年の歴史を持つ大日本帝国は、遂に原子爆弾と。ソ連の侵入に頭を下げた。皇国の歴史は踏みにじられたのだ。ラジオによる陛下の玉音『朕の一身如何あろうとも国民の斃れるのを見るに忍びず』のお言葉に、ただ涙が溢れる。(中略)いつの日か新しい日本を創って、今日の恥をそそがねばならない。どのような苦しみにも不幸にも耐えて、生きて行こう。陛下の御心を思うと慚愧に堪えない。泣いても、あがいても怒鳴っても、すべては終わったのだ。
「プロペラ工場の中で」より
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