任天堂の岩田聡(いわた・さとる)社長が55歳で死去したことを受けて、コピーライターの糸井重里さんは7月13日、「うん。(あの世で)また会おうや」と、独特の言い回しでその若すぎる死を悼んだ。自身のブログ「ほぼ日刊イトイ新聞」に、次のように書いた。
どんな別れのときにでも、
「また会おう」と言えばいいのだと思う。
ともだちだから、また、会う。
それはちっともおかしくない。
うん。また会おうや。
ずいぶんと遠くまで旅に行くんだって。
もっとずっと先の予定だったのにね。
いちばん似あう服を着て、
「急のことですみません」と、
ことばには出さないけれど、そう言ってた。
■「イチからつくり直していいのであれば、半年でやります」
糸井さんが岩田さんに出会ったのは、任天堂のTVゲーム「MOTHER」シリーズを手がけたのがきっかけ。第2作目「MOTHER2 ギーグの逆襲」の開発から4年が経過し、その完成が危ぶまれていた。そのとき、助っ人として現れたのが、当時は任天堂関連会社の「HAL研究所」社長の岩田さんだった。彼のアイデアで、「MOTHER2」を1年間で全面的に作り直し、1994年に無事発売された。生前、岩田さんと糸井さんは次のように当時のことを振り返っていた。
糸井「これをこのままつくるなら2年かかります」
岩田ええとね、私の記憶によると、とりあえず、その時点では完成する流れになってなかったんですね。で、まず「このままではできないと思います」って糸井さんに断言したんです。
岩田「よければお手伝いしますが、つきましては2つ方法があります」と。そこで、そのことばになるんですね。「いまあるものを活かしながら手直ししていく方法だと2年かかります。イチからつくり直していいのであれば、半年でやります」と。
岩田さんは「とりあえずちょっと動かしてみます」とデータを持ち帰った。グラフィックは完成し、シナリオやサウンドも出来ているのに、まともにゲームができる状態にはなっていなかった。岩田さんの手で1カ月後には、マップを移動できるようになり、半年後には通しでゲームができるようになった。糸井さんは「う、動いてるぅっ!」と感激したという。
■「せいいっぱいの今日をたのしんでください」と、岩田さんは言うと思います
岩田さんが死去した7月11日、糸井さんにはすでに訃報が届いていたのかもしれない。Twitterで「世界のすべての灯を消せ」と、悲嘆に暮れる思いを投稿していた。
2日後の死去の発表を受けて、糸井さんは故人の名前を出しつつ、前向きに歩む決意を示した。
「ほぼ日刊イトイ新聞」では、岩田さんの死去を受けて、彼が登場した記事を「岩田聡さんのコンテンツ」として特集を組んでいる。
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