秋篠宮ご夫妻が6月29日、結婚から25年目を迎え、現在の心境をご夫妻の対談形式でまとめ、発表した。お二人でパソコンを使用し、作成したという。NHKニュースなどによると全文は以下の通り。
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出会い
秋篠宮さま
今年は結婚をしてから25年が経つようです。時間は常に経過していますので、取り立てて25年に意味づけをするものではないと思いますが、少し振り返ってみるのも記憶と記録を整理する上でよい機会かもしれませんね。
紀子さま
はい。私たちの今までを整理する方法のひとつとして、対談の形もあるのではないかとのお話になりました。このような形に慣れておりませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
秋篠宮さま
もっとも、結婚する前にしばらく付き合っていた時期があるので、そのあたりから始めましょうか。いつのことか覚えていますか?
紀子さま
30年位前になりますでしょうか。私が大学1年生の春、本を探しに大学内の書店に立ち寄りましたとき、初めてご挨拶をさせていただきました。
秋篠宮さま
私の記憶に間違いがなければ、1985年の5月のことです。ちょうどそのころ、各地の文化や自然を楽しむことを目的としたインター・カレッジのサークルを作ったので、そこに誘ったところ喜んで入ってくれました。白川郷の合掌集落などずいぶんあちらこちらに出かけましたね。
紀子さま
はい。いろいろなところを旅行して、地域の豊かな文化や多様な自然にふれることができました。
秋篠宮さま
そして1986年、ある集いがあった後、あなたを送っていく途中に・・・。
紀子さま
二人で信号を待っておりましたとき、突然、将来のことについてのお話があって、びっくりいたしました。大学卒業後は、海外の大学院に行くことを考えていましたので、どのようにお返事をしたらよろしいかと迷い、考えさせてくださいとお話しさせていただいて。
結婚にむけた準備
秋篠宮さま
少し時計の針を進めましょう。私が大学を卒業したのが1988年ですが、その年の夏から暫くの間英国に滞在しました。この間、昭和天皇のご不例と崩御があったことから、しばしば日本に帰ることになりました。日本にいる間は、諸行事に参列するためだったのですが、そのおりに、将来のことについていろいろと話す機会にもなりました。そして、1989年の9月に公表するに至りました。これはいわゆる結納に当たる正式な婚約ではなく、皇室会議の議を経て婚約が内定したということを発表する機会でした。服喪中のこうした発表は異例なことと思った人がいたようですが、1951年7月の順宮(現池田厚子)様の発表は貞明皇后の崩御から約2ヶ月後で、しかも当時参考としていた旧皇室服喪令によると、私たちの発表時期より一段階重い服喪期間中でしたので、手続きを終えたという発表は前例にもあり問題ないと宮内庁は判断したわけです。
そして、私たちの結婚の時期についてです。秩父宮両殿下のご婚儀が1928年9月末で、昭和天皇の即位の礼が同年の11月初旬。その間は2ヶ月もなく、大変だったことを両陛下が聞いていらしたそうです。そのようなことから、私たちのときには、結婚から同じ年の11月予定の即位の礼までにある程度の時間があったほうがよいとのことで、私が帰国した直後に式がおこなわれることになりました。
紀子さま
とてもありがたい思し召しを賜り、感謝申し上げております。
秋篠宮さま
話が少し前後しますが、昭和天皇の一周年の行事が終わり、私は1990年の1月から6月にかけては英国に滞在していたわけですが、その間、新たに住む家については、あなたに任せきりでした。もっとも、改築の平面図を見てもイメージすることができない私より、多少は空間認知に優れているあなたが見る方がよかったのは明らかでしたが。
今のは自分にとって都合のよい言い訳なのですが、実際のところ帰国したのが6月21日で、6月29日の結婚式までは約1週間しかなかったことを考えれば、新居での生活の準備は完全にあなたへ依存していたわけで、このことについては申し訳なかったとしか言いようがありません。
紀子さま
いいえ。むしろ、英国よりのご帰国を待っていたのかのように、式までの約1週間、宮中行事の習礼をはじめ、関係者とのこまかい打ち合わせが多くおこなわれましたが、時差がある中、大変ではありませんでしたか。
秋篠宮さま
幸いなことに、私は一般的に言われていることとは逆で、若いころは東へ向かうほうが時差の影響が少なかったため、それで大変ということはなかったと思います。
紀子さま
新しい生活にむけての準備や支度は初めてのことばかりで、新居について、相談をしたいと思いましても、当時は連絡手段としてメールはまだ普及していなくて、電話やファクシミリで、英国との時差もあり、すぐには連絡がとれない状況でした。式までに考えるべきこと、決めるべきことがたくさんあり、大学院の講義も受けていましたので、時間が経つのが早く、準備を終えられるか心配でした。
そのような中、宮内庁の職員が、改築や内装をはじめ、よく考え、提案してくれました。そばにいらしてくださったら、どんなに心強いかしら、と思うことはありましたが、いろいろな人の助けを借り、用意をある程度進めることができました。
帰国されたときは、本当にうれしく、それまでの不安もどこかにいってしまうくらいでした。
結婚の日と新居
秋篠宮さま
さて、1990年6月29日の結婚の日は、結婚の儀にはじまり朝見の儀、その他の諸行事が朝からたくさんあり、夜の10時頃でしょうか、一息ついたときにようやく結婚したことを実感した記憶があります。もっとも、その翌日からもいろいろと行事があったので、何となく慌ただしかったですけれどね。
紀子さま
はい。このよき日の行事を滞りなく終えたときは、安堵いたしました。
大学院生としての日々から、公的な仕事をする生活となったことは、大きな変化でした。そうした中で、折にふれて、両陛下が導いてくださり、あたたかくお見守りくださいました。各宮妃殿下方にも、行事の所作や服装などを丁寧に教えていただきました。さまざまな形で多くの人から支えられましたことを、ありがたく思っております。
秋篠宮さま
少しばかり新居となった家のことを話しましょうか。というのは、私にとって10年ほど過ごしたこの家には、けっこう思い出があるからです。
当初、宮内庁は新婚の我々のために、仮住まいではあるけれど同じ場所に新たな家を建てることを考えていました。しかし、いずれ何処かに居を構えるのに、仮住まいのために立て直すその計画は無駄が多いように思い、現存している建物を一部改築して使いたい旨伝えました。たしかに大勢の人とそこで会うのには適当ではありませんでしたが、こぢんまりとしていたぶん、非常に落ち着く場所でもありました。玄関を入って少し大きな声で呼べば、どこにいても大抵聞こえたのではないでしょうか?
結婚後の生活をあの家でできたことはよかったと思っています。
紀子さま
約60年の木造家屋を、二人で過ごせるように直して、新しい生活がはじまりました。そして、娘たちの誕生にあわせて部屋を増やしました。その中で、娘たちは成長していき、子どもたちの元気な声が響き、ギターやピアノの音もよく聞こえる、温もりの感じられる家でした。
秋篠宮さま
今の家からは近くにあるので、この前行ってみたのですが、子供たちが小さい頃に遊び回っていたことを想い起こし懐かしく感じました。彼女たちも気に入っていましたよね。
紀子さま
はい。今の家に移りましてから、またあちらの家で住みたい、と娘たちが話していたこともありましたね。
日本国内・海外の訪問などに関連して
秋篠宮さま
ところで、結婚後には公的私的は別にして、日本の各地や海外を訪問する機会がたびたびありました。また各種の行事にも出席をしてきました。訪問場所や行事そのものというより、それらに関連して何か印象に残っていることはありますか?
紀子さま
この25年の間に、日本国内、国外でいくつもの場所を訪問し、行事に出席いたしました。そして、さまざまな出会いがあり、多様な分野の人のお話を伺ったり、取り組まれている活動を見せていただいたりするなど、貴重な経験をいたしました。
秋篠宮さま
そうですね。各地で温かく迎えてくださる方たちがいることは、うれしいしありがたいことです。
紀子さま
また、健康作り、子育て支援や食育など、幼児から一人暮らしの高齢者まで地域の人々の暮らしを見守っている方々にも多くお会いしてきました。心強い活動と感じています。
秋篠宮さま
私の場合には、たとえば学術や環境関係の授賞式等でご縁のあった人や団体が、その後さらに発展した形で社会への貢献をしたときなどは、とてもうれしく感じます。
公的ということに関連して、あなたもよく知っているように、皇族には国事行為の臨時代行以外に公務は存在しません。あくまで公的な行為もしくは活動であり、言葉としてきちんと区別するべきものと考えます。そのような公的な仕事は、公務と異なりある程度自分の裁量で取捨選択ができてしまう。そのようなことから、声をかけていただき、それらが適当と判断されたものについては、できるだけ応えるように心がけてはいます。
紀子さま
私もそのように努めてまいりました。そして、公的な活動でも、生活の中でも、宮家に関わる宮内庁や皇宮警察の職員をはじめ、さまざまな形で支えてくれる人たちがいることを大切に思っています。
秋篠宮さま
いっぽう、これは私的なことになりますが、国内外であなたとは一緒でなく訪れている場所もけっこうあります。なかには、一緒に行ってみたい場所もありますので、近い将来の楽しみとして考えることにしましょうか。
ちなみに、この時は眞子と一緒だったのですが、かなりの悪路ではあるものの、マダガスカルのチュレアールからムルンベへ行く途中に3種類のバオバブやパキポディウムを見ることができ、コーデックス好きにとっては素晴らしい12時間半のドライブを楽しみました。もちろん、ほぼ同じ時間をかけて帰ってきたのですが、ムルンベのバオバブの景観は本当に素晴らしいですよ。
紀子さま
いつか見てみたいですね。
子どもたちのこと
紀子さま
子どもたちが小さいときは動物園や博物館にでかけ、また、一緒に旅行もしました。その他にも、子どもたちとはたくさんの思い出がありますね。
秋篠宮さま
先日、英国にいる眞子から父の日のカードが送られてきました。普段は必要最小限の連絡事項をメールでしているだけなので、妙にうれしい気分になりました。久しぶりだったからかな。
紀子さま
すてきですね。私も眞子より母の日に羊の親子のカードを受け取りましたときは、胸が熱くなりました。
秋篠宮さま
佳子とは比較的最近のことですが、珍しく一緒に買い物に出かけたことがありました。父親にたいしてつっけんどんな態度のことが多いのですが、意外と優しいところもあり、私が自由に選んだものについて、代わりに会計をしてくれました。もっとも、帰りに彼女にそのまま荷物を持たせていたら注意されましたけれどね。
紀子さま
ほほえましいですね。佳子が小さかったとき、誕生日によく手作りのものを贈ってくれました。幼稚園のときだったでしょうか。私の誕生日に2つの贈り物を考えていたのですが、先に作った貝殻の贈り物を私に見せたくて、早めに渡してくれました。そのあと、誕生日にもうひとつの贈り物をもらい、お祝いを2回してくれた、かわいらしい思い出もあります。
秋篠宮さま
悠仁もしばしば折り紙などの作品を届けてくれます。上の子どもたちと同様、もらったものには年月日を付して、飾ったり、保存したりしています。最近は、絵も上手になってきましたね。自分が絵を描くことが下手なので言うわけではありませんが、何かを観察してそれを絵として表現できると旅をしたときの記録として意味が出てきますので、どんどん描いてほしいものです。
紀子さま
絵を描いたりするほかにも、切り紙をしたり、厚紙で入れものをつくったりしながら、いろいろなものを創り出すことを、悠仁は楽しんでいますね。
私たちの手許には、子どもたちの小さいときからの作品がいくつもあります。どれも大事な宝物。普段なにげなく描いた絵から、本に登場する主人公や生き物などを描いたものが廊下の壁にかかり、折り紙やペーパークラフトが部屋に飾られています。
結婚したころと今と
紀子さま
ここで、結婚したころと、それから25年たった今のお気持ちを伺ってもよろしいでしょうか?
秋篠宮さま
このような機会がないと考えることもないですからね。
1990年というのは、ついこの間のことのように思えますが、やはり相応に時間がたっているということを感じることはあります。仕事や研究などでいろいろな事柄を解釈・判断するときに、若いころでは思い至らなかったことが多々あると感じます。そのことで、ずいぶんと周りに迷惑をかけたことがあるように思います。
もちろん、いまだに不十分で、反省と後悔すること多々ありです。精神年齢が未だ20代から進化していないのでしょう。
紀子さま
私も結婚をしたころは、慣れないことや戸惑うことがあり、考えすぎることや力を入れすぎて、ご迷惑をおかけしたことがいろいろあったのではないでしょうか。今は遅ればせながら、力を抜くこつが少しずつわかってきたように感じていますが。
このようなことにも「進化」という見方があるのですね。今でも、20代のときのような探究心や若々しい感性や創造性をおもちになっているのではないでしょうか。例えば、研究会に参加されているときには、そのように強く感じることがあります。
秋篠宮さま
たしかに研究会等への出席は、今まで自分がもっていなかった知識を得る機会にもなり、有意義に感じることが多くあります。まだまだ好奇心は残っているなと。出かける前と帰ってきた後とでは、テンションが違うと感じることがあるでしょう?
紀子さま
はい。お話しくださる様子から、心がはずむ時間を過ごされたのではないかと感じることがあります。
秋篠宮さま
いっぽう、フィジカルな面は劣化していますね。走り回ることについては、佳子が小学生の時にリタイアしてしまいましたが、最近不便に感じているのが老眼。もともと遠視があったので遠からずそうなるだろうと予想はしていましたが、眼鏡が放せなくなってしまいました。まあ、いたしかたないことではありますが。
紀子さま
私も小さい字が急に見えにくくなりました。また、疲れたとき、回復する時間が以前に比べてかかるようになりました。
毎朝のように散策をされたり、休みの日には庭仕事をされたり、よく身体を動かされていますね。週末は、散策に私も誘ってくださいますので、四季の移り変わりを感じながら歩くこの時間は、健康のためにも、楽しみのためにもありがたいです。
秋篠宮さま
25年というと、親・兄妹と過ごした年月より長く一緒にいたことになります。それだけの期間をともに過ごしていれば、共有することができた貴重な経験は数多くあります。また、誰かの言葉を借りれば導火線が短い私ですので、口論も多々あるのはごく普通のことでしょう。そのようななかで、ほとんど言葉に出さないので不満かもしれませんが、感謝の気持ちもきちんともっていますよ。
紀子さま
それはうれしいです。
秋篠宮さま
さまざまな書類、私の所に届くまでに不明な点などを整理しておいてくれますね。これは非常に助かっています。
紀子さま
まだまだ至らないところもあると思いますが、そういう面でもお役にたっておりますなら、幸せです。
秋篠宮さま
また、昔から何故か階段を踏み外しやすいことから、階段のあるところでは、滑り落ちないようにさりげなく支えてくれていますね。周囲から見ると、私があなたを支えているように見えているかもしれないけれども。
紀子さま
こちらこそ、いつもこまやかにお教えくださり、また健康面も気遣ってくださり、深く感謝しております。
また、一緒に生活をするようになってからわかったことですが、食べ物の好き嫌いがほとんどありませんね。私は、いくつか苦手なものがありますが・・・。食材を自由に選ぶことができて、助かっています。旅先でもいろいろな郷土料理を一緒に楽しむことができ、食文化に親しむ機会が増えたように思います。
ほかにも、用事が立て込んでいましても、余裕をもって時間を守られていることには敬服しております。私は自分の時計の針を早く進めても、遅れ気味になってしまいます。もっとも、行事の前に私のところにいらして、あと何分と言われると、プレッシャーを感じますが・・・。
お互いの気づきや発見がいろいろあり、自分と違う考え方だなと感じるいっぽうで、共有できる見方もありました。また、理解するのが難しかったこともあれば、言葉を交わさずとも心が通じ合うようになり、助けられたことも多々ありました。
秋篠宮さま
そうですね。結婚するまでまったく異なるところで暮らしてきたわけですから、考え方などで共有できるところとそうでないところがあるのは当然のことでしょう。その上で、我が家の場合に限って言えば、経験を共有することと趣味を共有しないことがよかったと思います。経験は共有することで将来的に発展しますが、趣味、たとえば、あなたが瓢箪に興味をもってそれを共有したとすると競ってしまいますので、良好な関係でなくなる可能性大です。趣味はそれぞれ楽しみましょう。
紀子さま
それぞれの趣味もありますが、一緒に音楽を聴いたり、自然に親しんだり、旅行にでかけたりという時間も楽しいですね。
夫、妻、親として
秋篠宮さま
さて、ときどき夫もしくは親としてどのように認識されているのか気になることがあります。あなたも同様でしょう。最後に評価でもしてみませんか?
紀子さま
気にしているかどうかわかりませんが、面白そうですね。
秋篠宮さま
本来であれば、第三者、まったくの第三者というわけにもいかないので、私以外の家族に委ねなくてはいけないのでしょうが、それをするにはまず自らを振り返ることが必要です。とはいうものの、あなたと子どもたちから私の評価を聞くことは、今までの自分の行いを考えると少し怖い気もするので、今回はあくまで自己点検・評価でいきましょう。
きちんとした項目立てをして、優・良・可・不可で客観的に点検および評価をしたわけではありませんが、漠然としたメルクマールからすると、私の場合には限りなくボーダーラインに近い「可」といったところでしょうか。
紀子さま
私も仲良く「可」にいたします。いろいろな可能性を秘めている「可」ということでいかがでしょうか。
秋篠宮さま
おたがい、改善点が多いということですね。「良」や「優」は、今後の努力目標とすることにしましょう。
紀子さま
はい。これからも、可能性を大事にしつつ、努力目標にむけて一緒に年を重ねていくことができれば幸せに思います。
秋篠宮さま
それでは、このあたりで終わることにしましょうか。
紀子さま
そうですね。ありがとうございました。
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