2011年3月11日。津波の被害を受け、1400人を超える死者・行方不明者を出した宮城県気仙沼市。未だ市街中心部に更地が残るこの街では、職場や家屋を失った人たちが街を離れている。そんな中、復興に向けて取り組む、フィリピン人女性たちのコミュニティがあるという。その名も、「バヤニハン気仙沼フィリピーノコミュニティー」。バヤニハンとは、タガログ語で「助け合い」の意味だ。
会長の高橋レイシェルさんと、副会長の及川ジェニファジーンさんの2人は1980年代後半に来日。観光ホテルでエンターテイナーの仕事をしながら、日本中を回った。その後、気仙沼の日本人男性と結婚し、移り住んだ。20年を超える友人同士でもある。
被災前後の気仙沼、そしてこの地で、外国出身者として生きていくこととは、どのようなものだったのか。話を聞いた。
被災直後の気仙沼市
■2人の3.11
――11日のことをお聞かせください。
及川:すごい揺れだった。慌てて家の外に出て、前にある公園に行きました。道路の方では、タクシーが地割れのなかに落ちていて、世の中の終わりだと思いました。そうしたら、「津波だぞー」という声が聞こえました。向こうのパチンコ屋の方からも「津波警報です、津波警報です」と放送が何回も何回も。でも道はヒビだらけだし、逃げたほうがいいのか、ここにいたほうがいいのか、全然わからなかった。
津波なんか、テレビでしか見たことなかった。だから、様子を見ようと思って、海の方に歩きました。そしたら私を見た人が「あんた、どこさ行くん?」って。「津波、見に行くよ」って。「ダメ! 逃げて!」。海の方を見たら、いっぱい人がこっちに向かって走ってくるのが見えました。初めて、すごいことになっているのがわかりました。
その後は、家族が無事か、とにかくそれが心配で。避難所に行って、いろんな人のケータイを借りても、どこにもつながりませんでした。「私はどうなってもいいから、家族は生きていて欲しい」って思った。家族はバラバラで、1週間くらい、それぞれ近くの避難所で暮らしました。
家は大丈夫でしたけど、旦那の実家は流されて、旦那のお兄さんとその息子さんはダメでした。
電話がつながらなくて、心配だから家に戻ったところを流された、そうやって亡くなった話をいっぱい聞いて、「あの時、電話がつながればな」って思いました。「大丈夫」。たった3文字のメールが送れたら、それだけでたくさんの人が、流されずに済んだのになって。
及川ジェニファジーンさん
――高橋さんは?
高橋:あの時は、東京に向かう新幹線の中。宇都宮と大宮の間で電車が止まって、夜9時まで、出られませんでした。いくらメールを送っても、家族からは返事が帰ってこない。新幹線の中にはテレビもないし、気仙沼がどうなっているかわからなかった。その夜は、避難所まで13キロ歩きました。避難所のスクリーンで気仙沼が火に包まれているのを見ました。「ああ、みんな死んじゃった」そう思いました。次の日も、気仙沼には戻れなくて、千葉の旦那のお姉さんの家に泊めてもらいました。一週間くらいです。
旦那から連絡があったのは、4日目。「大丈夫だよ」と。
旦那は電話で「今すぐフィリピンに帰りなさい」と言いました。だけど、私にはわからなかった。「なんで? 私は気仙沼で働いて、気仙沼に家族がいる。気仙沼に帰ります」って。そうして、私は21日にようやく帰ってきました。
高橋レイシェルさん
■震災後の日々
――家に戻ってからの生活は?
高橋:あっちに大きな病院があって、そこに通じる道はあっという間に直りました。自衛隊が来て、真っ先に直したんです。すごいなと思いました。街全体がドブ川みたいになっているのに、病院への道だけがサーって線を引いたように綺麗になっていました。あの景色は、よく覚えています。自衛隊すごい!って思いました。
街はメチャクチャで、もう1年くらい、仕事も再開できない状態でした。私たちは何もできないのに、いろいろなところからボランティアの人たちが来て、助けてもらいました。少しずつ、街は片付いていくけれど、自分たちの生活を元に戻すのは簡単じゃなかった。ウズウズするような毎日で......。
被災直後の気仙沼
そんな時に、難民支援協会から、「気仙沼の外国人コミュニティのために、なにかできることはありませんか?」って声がかかったんです。物資は、いろいろなところから来て、十分にあった。道路や建物は、私たちがどうにかできることでもないですし。私たち気仙沼に住むフィリピン人の多くが、水産加工工場に勤めていて、仕事がなくて、それを何とかしたい。
みんなで考えました。どんな支援をお願いしたらいいのか。工場がなくてもできて、気仙沼にも役立つ仕事ってなんだろうって。それが、介護でした。気仙沼も、他の地方と同じで、お年寄りがいっぱいいます。この人たちは今、困ってるはずだ、って。それで、「介護を勉強させてください」ってお願いしたんです。
人によって日本語の上手さも違いますから、日本語、ひらがな、カタカナの教室から、30人くらいで始めて、先生がボランティアで毎週、県外からここに来ていただいたり、こちらから行ったり、半年間、講義を受けました。最終的に9人が介護福祉士の資格に合格しました。いま、現役で介護士として働いている人もいます。
勉強する機会をもらったこと。これはいつまでも残ります。お金もモノも、すぐになくなっちゃいますから。
私たちのような外国人のコミュニティも気仙沼にはあるんだよ、こういうことしてるんだよ、それを伝えるために、ラジオ番組をやったりしました。それでまた、地元の人にも知ってもらえました。今はもう、ラジオはやっていませんが、いい思い出です。
介護の授業を受けている様子
■「外国人だから、困ったことはない」
――外国出身だから、大変だと思ったことはありますか。
及川:困ったことはないです。避難所でも、その後の生活でも。あるのは、地震と津波に遭ったか、そうでないかだけ。避難所ではどの人もものすごく列を乱すことなく並んでいました。穏やかな雰囲気ではなかったです。ピリピリしていましたけど、みんなその中で必死にきちんとしようとしていたんだと思います。
高橋:私もない。本当にない。震災の前からずっと、私たちのコミュニティは地域の人たちに溶けこめるように、活動してきたからかもしれません。一緒に盆踊りをやったり、逆にフィリピンのダンスを教えたり、まちづくりのイベントを一緒に企画したり、英語をやったり――平和だったね、あの時は。
でも、震災で役割が180度変わりました。どうやって復興に関わっていくか、どうやって地域で、みんなで立ち直るか。そういう役割がコミュニティに求められました。その中で、一人、また一人と介護の仕事を初めたり、別の仕事を見つけたり、自立していった。そういう2年間でした。それは、地域の人もみんな同じだと思います。私たちはたまたま目立つだけ。
震災前から、地元の祭りなどで積極的に交流していた
――その後の2年は?
高橋:2年経ったところで、支援団体の方にも「もう、私たちは自分でやっていけます」と伝えました。お世話になってばかりじゃダメです。2年も経つとやっぱりどこか、「支援を受けていれば、なんとなく暮らせるんじゃないか」って雰囲気になりそうで。それを、自分たちではねのけられるか。それが大事でした。教育、って形で支援してもらったのは、自分たちでまた、やっていくためだったじゃないか、って。
地震が起きて、津波が来て、大変でした。助けてもらいました。でも、地震を受け止めて生きていくのは、私たちですから。つらいこともみんなそれぞれあるけど、今度は私たちが頑張るところ見せる番でしょ、「がんばっぺし」ってね(笑)。
■気仙沼・街の記憶
南気仙沼駅付近は最も津波の被害が大きく、4年経った今でも、盛り土をしている状態だ(2015年2月26日撮影)
港の付近(2015年2月26日撮影)
――私は、昨日始めて気仙沼に来ました。港の方はほとんど更地で......。津波の直後はどんな様子でしたか。
及川:もう、津波が来たあとは魚の腐った匂いがずーーっと続いて、マスクをしないと外に出られませんでした。夏は本当に大変だった。そのあとはガレキの撤去とブルドーザーの工事が入って、土ボコリがすごくて。やっと去年(2013年)くらいかなあ、少しマシになったのは。
でも、港の方はまだほとんど更地。再開した水産加工会社は、何件かだけです。いくら魚が上がっても、冷凍して置くところがないから、加工できないんですよ。
昔は港の近くに住んでたんです。夕方になると水産加工工場が仕事の終わりに、掃除をするんです。その時に、魚の匂いが街中に充満しました。最初は嫌だったけど、すぐ慣れました。毎日のことだから。津波のあとの匂いは、平和なときの匂いとぜんぜん違うんです。いろんなものが混ざってないからだと思います。
津波の前は、賑やかな街でした。カツオとか、サンマとか、季節になると毎年、船が来て、港はぎっしり。南気仙沼駅のあたりは、ホテルとか、飲み屋さんとか定食屋さんとかが並んでいて、よそから来た船乗りの人がたくさんいました。
台風が来ると、港に船を停めた船乗りさんたちが「仕事にならねえな」なんて言いながら、お酒を飲んだりしていました。どこのお店もいっぱいだった。「あと2日くらい、漁に出ずにいればいいのに」って冗談で声をかけると、「そんな長引いたら、お金なくなっちゃうよ!」って帰ってきたり(笑)。そんな思い出が残っています。今はなにもないけれど。
――少しずつでも、復興していることは感じますか?
及川:うーん......去年からは、工事のペースがぐんと落ちて、工事のクルマも、減ったんじゃないかな。2020年の東京オリンピックが決まったから、と聞いたんですけど、本当ですか? 私にはわかりません。でも、もし本当なら......少し複雑な気分です。
被災前、2009年の気仙沼市
■2015年。日本で生きているということ
――街はまだまだ復興の途上ですが、4年たった今、震災はどう、生活に影響を及ぼしていますか。
及川:去年(2013年)くらいからは、だいぶ普段の生活を取り戻しています。でも、今ではこうして取材を受けたり、どこかのホールで講演したり。1月には震災があった神戸に行って話しました。私たちの体験をお話することが、すごく増えました。「もう4年だよ、みんなで旅行でも行こうよ」って友達同士で言っていますけど、結局、震災がらみで忙しくて、行けていません。――やっぱりぜんぜん戻ってないですね――戻ることはないんでしょう。
こんなに家を空けることが多くて、旦那さんに離婚されなければいいけど(笑) でも、家族の理解があることは、本当にありがたいです。それがなかったら、何もできないです。
高橋:今は本当に、震災前よりずっと、自分の役割っていうのを感じます。遠いところから嫁に来て、家族のひとりとして、日本に住む人として、外国人として、地域にいる人として、そうやって生きてるんだなって。
及川:それは、私も思います。日本に来たばかりの頃は、周りの人が外国人に慣れてないから、挨拶しても返してくれなかったり、驚かれたりしました。
旦那さんがあるとき、私にこう言いました。「誰にも迷惑かけてないんだから、堂々としてなさい」って。それで、自分から何度も「こんにちはー!今日はいい天気ですね!」って言うようになったら、みんな、顔がパーって明るくなって、あっという間に友達です(笑)。嫌われてるわけじゃないんだって。それから、私がフィリピン人だからといって、嫌な思いをしたことはないです。
外国から来た私が引きこもってたら、いつまでたってもそのまま。自分から踏み出す、そして、それをみんなに伝える。これからもそうやって生きてくんだと思います。それは津波が来る前も、後も、変わらないです。
だって、生まれたのは遠くても、私の家はここにあって、家族もここにいて、私がいる場所もここだから。