クエンティン・タランティーノ監督の映画『パルプ・フィクション』は、1994年10月14日にアメリカの映画館で公開された。製作を請け負った映画会社ミラマックスが、ディズニーに買収された直後にリリースされたこの映画は、ディズニー映画史上最も暴力的な作品と言えるかもしれない。しかし、公開から20年経った今でも人々を魅了し続ける魔力が、この映画にはある。
何年もの間『パルプ・フィクション』は、タランティーノ監督のカルト的なファンたちの間で、様々に解釈されてきた。中には、映画の世界観そのものをひっくり返しかねないものまである。一度、ファンたちが繰り広げるこうした「都市伝説」を読んでしまったら、あなたはもう二度と同じようにこの映画を見ることができなくなるかもしれない。
数々の都市伝説の中でも、どうやら本当らしい5つがこれだ。
1. スーツケースの中には、ギャングのボス、マーセルス・ウォレスの「魂」が入っている。
『パルプ・フィクション』では、物語の仕掛けとしてブリーフケースが使われているが、その中に何が入っているかは、一切説明されていない。そのため、ファンたちは勝手な解釈を作り上げ、中に入っているのは放射性物質だとか、タランティーノ監督の処女作『レサボア・ドッグズ』で登場したダイヤモンドでは、などといった憶測を繰り広げている。
しかし、最も支持されている説は、ブリーフケースに入っているのはギャングのボス、マーセルス・ウォレスの「魂」だというものだ。都市伝説サイト「スノープス」には、このように書かれている。
マーセルス・ウォレスが最初に登場したシーンを思い出してほしい。最初のショットには、彼の後頭部が映っていて、そこには絆創膏が貼ってあった。また、ブリーフケースの鍵の番号が「666」だったことにも注意してほしい。さらに、誰かがそのスーツケースを開けるたびに、必ず中身が光を発していたこと、開けた人はその美しさに呆然していたことも思い出してほしい。そして、誰もが言葉を失っていた。
ここで、聖書に書いてあることを思い出そう。悪魔は、人の後頭部から魂を盗んでいくのだ。
そう、ご明察のとおり。人間の一番美しいものとは何か。それは魂だ。マーセルス・ウォレスは自分の魂を悪魔に売ってしまい、それを買い戻そうとしていたのだ。つまり、映画の冒頭に登場する3人のチンピラは、その悪魔の手下なのだ。また、最後にチンピラがトイレから飛び出して、銃を手に襲いかかってくるときも、ジュールスとヴィンセントは怪我をしなかった。これは、2人がマーセルス・ウォレスの魂を救済しようとしていたから、「神が降臨して弾丸を止めた」からだ。神が2人を守ったのだ。
1995年のプレイボーイ誌のインタビューで、サミュエル・L・ジャクソンは、タランティーノ監督にブリーフケースの中身について聞いたときのことを語っている。監督の答えは『お前が入っていてほしいと願うものさ』だったという。
2.『パルプ・フィクション』の「パルプ」とは「トイレットペーパー」のことである。もし登場人物全員が、もっと早くトイレを済ませていたなら、映画の展開は全く違ったものになったはずだ。
ヴィンセント・ヴェガがトイレに行くたびに、必ずヤバいことが起きる。
例えば、ヴィンセントがミア・ウォレスの家のトイレでのんびりしていたら、ミアは彼のヘロインを過剰摂取してしまった。また、もし彼がダイナーのトイレで、コミック本の『モデスティ・ブレイズ』を読んでいなかったら、ジュールス・ウィンフィールドは、泥棒たちとのんびり話はできなかったはずだ。さらに、もし彼がブッチ・クーリッジの家で、また『モデスティ・ブレイズ』を読んでいなかったなら、彼は逃亡中だったボクサーを余裕で殺せたはずだ。
ヤバいことが起きるのは彼がトイレに行ったときだけとは限らないが、ヴィンセントの長ーいトイレのおかげで、他の登場人物たちは色々と損をしている。
例えば、ブレットのアパートに現れた暗殺者は、もしヴィンセントがトイレでグズグズしていなければ最初から部屋にいられたはずだし、その結果、彼とマービンは二人とも死なずにすんだはずだ。ダイナーのトイレでミアがコカインを吸ったことによる他の登場人物への影響はそこまでなかったが、もし彼女もトイレに行っていなかったら過剰摂取にならずに済んだかも知れなかった。
『モデスティ・ブレイズ』のように、この映画は実は「トイレ・フィクション」なのかもしれない。
3. ジュールス・ウィンフィールドが暗誦した「エゼキエル書25章17説」は実際の聖書の一節ではないが、もしかしたらタランティーノ監督の世界ではそう翻訳されていたのかもしれない。
ブレットをアパートで処刑する前、ジュールス・ウィンフィールドは、聖書から「エゼキエル書25章17節」を暗誦する。
心正しき者の歩む道は、心悪しき者のよこしまな利己と暴虐によって行く手を阻まれる。愛と善意の名において暗黒の谷で弱き者を導く者は幸いなり。なぜなら、彼こそは真に兄弟を守り、迷い子達を救う羊飼いなり。よって我は、怒りに満ちた懲罰と大いなる復讐をもって、我が兄弟を毒し、滅ぼそうとする汝に制裁を下すのだ。そして、我が汝に復讐する時、汝は我が主である事を知るだろう。
だが、タランティーノの世界では、きっと聖書もこのように超暴力的なのである。ネット掲示板「Reddit」ユーザーのProfessorStephenHawkさんはこのように指摘した。「もし聖書がこのように訳されていたならば、心悪しき者を『打ち倒す』ことを正義とする世界を作り上げていただろう。『悪しき者を打ち倒すために暴力を用いる者にこそ、恵みあれ』という世界だ。そして、このように聖書の言葉が翻訳されていたら、はるかに多くのイケてる悪者にあふれた歴史だっただろう』。
タランティーノ作品で表現されている超暴力は、もっとジャンゴ的な、正義のためには報復を辞さないイエス・キリストを聖書が描いていたら、とても自然なものだっただろう。
4. ヴィンセントとジュールスが撃たれる前に、アパートの壁にすでに銃弾の穴が開いているというミスは、実は意図的なもの。
ヴィンセント・ヴェガとジュールス・ウィンフィールドは、ブレットのアパートからマーセルス・ウォレスのブリーフケースを回収しようとするが、そこへいきなり暗殺者が現れ、彼らを撃ち殺そうとする。しかし、弾丸は全て外れ、暗殺者は返り討ちにあう。暗殺者を殺したあと、ジュールスは、これは『神の力』のおかげだと言い始める。「俺たちは死んでたはずだ」「神が降臨してこのクソッたれな弾を止めてくれたんだ」と言う。
ところがこのシーンで、ヴィンセントとジュールスを襲った男が撃った外れ弾によるらしい後ろの弾痕は、男が飛び出してくる前からそこに開いていた。ほとんどの人は、これをセット設計のミスで、映画史でも有数の名NGシーンだと片づけるだろう。だがもしこれがミスでなかったとしたら?
この説を唱える人は、二人を殺そうとしていた暗殺者は気付かずに偽物の銃を使っていて、だから「発砲した時にリボルバーの弾倉が回転しなかった」というのだ。そう考えれば、あれほどの至近距離にいながら、何発も外したことの説明になるとともに、ジュールスの「これは神がもたらした奇跡だ」という確信がおそらく事実ではないことを示唆する。それまでにも、「どうして神が自分たちに手を差し伸べたりするのか」というジュールスと、そして特にヴィンセントの疑問は度々描写されており、そこにタランティーノ監督は、さらなる混乱を与えようとしたのだろう。
とは言ったものの、アパートで繰り広げられるシーンの前半部分では、壁にまだ穴は空いていなかった。
5. 没になったミアが主演の映画試作品は、『キル・ビル』だった。
「ジャック・ラビット・スリムズ」で夕飯を食べながら、ミア・ウォレスは『フォックス・フォース・ファイヴ』という自分が主演した映画の試作品についてヴィンセントに話している。『パルプ・フィクション』では没になったことになっているが、それがもし数年後ミアを主演にした映画として、復活していたらどうだろう。
ウォレスはその組織、フォースの他の女たちについて『ブロンドの女がね……リーダーなの。日本人狐はカンフーの達人。黒人の女は破壊工作のプロ。フランス女の専門はセックス。(私のは)ナイフよ」。
まるでタランティーノ監督のあの映画そのものではないか……
これをどうとるかはあなた次第だが、タランティーノ監督は『キル・ビル』について、『映画の中の映画』だと言っている。これは、タランティーノ監督のより日常を描いた映画、つまり『パルプ・フィクション』の中の登場人物が物語の中で見に行くような映画という意味だろう。
『パルプ・フィクション』が他のタランティーノ映画と関連している点はこれだけでない。『レザボア・ドッグス』のヴィック・ヴェガはヴィンセント・ヴェガの兄弟である。タランティーノ監督は『パルプ・フィクション』に登場した架空のタバコ銘柄「レッド・アップル」も他の作品で何度も使っている。
いかがだっただろう? いずれにせよ、20年経った今でも、ヴィンセント・ヴェガほどイカしたツイストを踊れる男はいない。
特に表記がある場合をのぞいて、画像は全て『パルプ・フィクション』から。
この記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。
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