「ヘイトスピーチ、起源は関東大震災」 朝鮮人虐殺描いた本が異例のヒットに

関東大震災時の朝鮮人虐殺の記録を掘り起こした『九月、東京の路上で』は、発売から約半年ですでに3刷、1万部に達した。なぜ今、90年前の惨事に改めて関心が集まるのだろうか。
Taichiro Yoshino

東京・杉並。京王線千歳烏山駅から歩いて10分ほどの住宅街の一角に、烏山神社がある。その境内に、見上げるほどの高さのシイの木が、葉を茂らせてそびえ立っている。

現在確認できるシイの木の本数は4本。境内にも周辺にも、由来を示す記述はない。しかし、編集者の加藤直樹さん(47)によると、ここからさらに徒歩10分ほどの場所にある旧甲州街道の橋で起きた、91年前の惨劇にまつわる植樹だという。

1923年9月2日、関東大震災の被災者が列をなして郊外へ避難の道を歩いていた。暴動の噂を聞いて自警団が組織され、竹やり、鳶口、刀などを持って警戒していた。ところがその夜、反対方向から、駅の復旧作業に向かうトラックがやってきて、震災で崩れた橋のたもとで脱輪する。

「車内に米俵、土工(土木工事)用具などとともに内地人(日本人)1名に伴われた鮮人(ママ)17名がひそんでいた。(中略)朝鮮人と見るや、警戒団の約20名ばかりは自動車を取り巻き二、三、押し問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩(なだ)れるように手にする凶器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の鮮人に重軽傷を負わせ、ひるむと見るや手足を縛して路傍の空き地へ投げ出してかえりみるものもなかった。」

(東京日日新聞1923年10月21日付「烏山の惨行」より。加藤直樹著「九月、東京の路上で」から引用)

このときに13人が殺されたことを偲んで烏山神社に13本のシイの木が植えられた、と書く本もある。しかし、実際の犠牲者は1人だった。一体、シイの木は誰を偲んだのか。

この事件では、のちに12人が起訴された。1987年に地域で発行された冊子に、以下のような古老からの聞き取りがあるという。

このとき、千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手をさしのべている。千歳村地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり、関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を祈念として植樹した。

加藤さんは「犠牲者への同情もありますが、むしろ加害者への同情を込めた植樹だったというわけです。背景を知ると、当時の雰囲気が、そのまま封じ込められているように思えます」と話す。

亀戸、四ツ木、寄居、船橋…。加藤さんが関東大震災時の朝鮮人虐殺の記録を掘り起こし、当時起きたことを地域ごとに再現した『九月、東京の路上で』(ころから刊)は、初版2000部を10年かけて売るつもりだった版元の予想を裏切り、発売から約半年ですでに3刷、1万部に達した。

なぜ今、90年前の惨事に改めて関心が集まるのだろうか。加藤さんに聞いた。

■「殺した側と殺された側の子孫が同じ空間に住む街」

――なぜ売れたのだと思いますか。

やはり今、レイシズムが盛んになっている状況を連想して読んでいる人が多いのではないでしょうか。「放置するとここまで行くのか」と思って読んだのではないか。Twitterで感想を書いてくれた人の「これは90年前のことではなく今のことだ」という言葉が印象に残りました。

そして、東京という身近な都市で起きたという驚きでしょう。関東大震災時の朝鮮人虐殺は学校でも学んでいるはずだけど記憶に残っていないし、地域でも聞いたことのある人はいるはずなのに、耳にしたことは少ない。それが千歳烏山や亀戸など、知っている地名が出てきて、起きたことが具体的に描かれています。

よく「この手の本にしては売れた」と言われるけど、つまり、日本の負の歴史を扱った本なのに読まれたということ。朝鮮対日本、正義対悪といった観念先行の本でなかったことも一因でしょう。コントロールできない状況に追い込まれた朝鮮人、中国人、そして日本人の群像が描かれる。糾弾調では読んでいて辟易するけど、この本は読み終えたとき、我々の社会の物語と受け止めることができる。日本人も外国人も共に暮らす東京に住みたい、それを理想とする人たちの気持ちにフィットしたのだと思います。

――なぜこの物語を書こうと思ったのでしょうか。

2000年4月、石原慎太郎・東京都知事(当時)の「三国人発言」(石原氏が陸上自衛隊の行事で「不法入国した多くの『三国人』、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」「すごく大きな災害が起きたときには大きな大きな騒擾事件すら想定される」と述べた発言)に驚いたんです。地震が起きたとき、外国人が暴動を起こすという発想自体が危険だと思った。「起こすかもしれない」という流言が悲劇を招いた事例は世界各国にあるし、さらに行政がそれを広げたことが事態を悪化させた例も数知れない。

そう思って2003年、東京都が毎年開いている関東大震災の慰霊法要に出てみました。当時、すでに80年前のことだから参加者もそんなにいないだろうと思って行ったら、慰霊堂の中はぎっしり。不思議に思いながら、たまたま隣のおばあさんに「どなたが亡くなられたんですか」と声をかけたら「兄です」と言われた。実は1945年の東京大空襲の慰霊も合わせて行なわれていたんです。

それもなんだかなあ、と思っていると、外から朝鮮民族の音楽が聞こえて来るんです。午後から開かれる朝鮮人虐殺の追悼式のリハーサルだと、運営の人が教えてくれました。そのとき初めて、ルワンダやユーゴと、目の前の景色が重なったんです。東京というのは、殺した側と殺された側の子孫が同じ空間に住んでいる街なんだということ。そのとき、関東大震災の「生きた状況」を描きたいと思いました。

そうは言っても時間がなくて取りかかれなかったのですが、2013年、新大久保でヘイトスピーチをするデモ隊が社会問題化しました。デモ隊はその前年から大久保通りでデモをして、終わった後「お散歩」と称して奥の道に入って、韓国商店への暴言や営業妨害を繰り返していた。生まれ育った街だから、怒りがわいて、抗議行動に参加しました。

ちなみに、ヘイトスピーチのデモに抗議する人々の中でも、デモ隊に併走してののしるのが「しばき隊」で、プラカードをもって抗議の意思を示すのが「プラカ隊」。私たちは「知らせ隊」として、歩道を歩いている人や商店の人たちに「これから差別デモが通ります」というビラをまいたり「民族差別に抗議中」というプラカードを掲げたりしていました。

2013年6月末以降、批判が高まって新大久保では差別デモが行なえなくなりました。ほかの地域では依然として続いていましたが、僕と何人かの友人は、「問題を掘り下げることをやろう」という話になり「関東大震災を改めて伝えるブログ」を始めることにしました。目の前のヘイトスピーチには歴史的起源がある。関東大震災からちょうど90年後の年に「朝鮮人を殺せ」と言っている人たちが街頭に出ているのに、その起源である関東大震災と結びつけて考える人がいないのは不思議だと思ったんです。

買い集めていた関連書籍から引用したり、2013年8月ごろから、地元の図書館、大学の図書館、国会図書館に通い、官僚や作家、労働者、様々な人の当時の声を集めました。8月31日夜のプロローグ、9月1日昼前のシーンから始まり、2日、3日と虐殺の起きた時刻や場所での出来事を、同じ時刻にアップしていく。虐殺そのものはだいたい9月6、7日に終わるんですが、拾いきれなかったエピソードをアップし、10月6、7日ごろまで続いた。ブログは今も残っています

■まるっきり遠い話でもない。2005年のアメリカでも起きた

2013年6月30日、東京・新大久保周辺であったデモ

――やはり、大久保という土地で生まれ育ったことが大きく影響しているように見えますね。

1970年代に幼少期を過ごしましたけど、当時も相対的には他よりも在日コリアンが多い地域でした。学年に3、4人は朝鮮・韓国名の子がいる。日本名で通っている子はもっと多かったはずです。在日だけではなく、大久保通り沿いの商店主の子、歌舞伎町のホステスの子、国鉄アパートに住む子、公務員住宅に住む警察署長一家、大きな家から6畳1間に6人住む家族まで、階層も多様だった。そういう街に在特会がやってきて「朝鮮人は出て行け」と言ったわけだけど、なんで彼らに線引きを指示される筋合いがあるのかと思った。色んな人が住んでいるのが東京の良さではないのか、と。

大人になってからも天安門事件で中国に帰れなくなった友人、ソウルの韓国人の友人、在日コリアンの友人、そういう人たちと付き合いがあったので、殺した人、殺された人たちの物語が遠くに感じられないんですね。

――しかし阪神大震災でも東日本大震災でも、被災者の秩序だった行動は注目を集めました。関東大震災の混乱が再び起こるとは思えないのですが。

文字どおり再現することはありえないでしょう。現代の人は「いつか東京に大地震が起きるだろう」と、大体知っていますが、当時は周期的に地震が起きるという知識もなく、備えもなかった。当時のように東京の通信がまったく途絶することもないでしょう。それに当時は3世帯に1本の割合で日本刀が家庭に普通にあったと言われているし、拳銃も合法でした。日露戦争、シベリア出兵と戦争が続いていて、外地で人殺しをしたことのある男たちも多かったわけですから。

しかし一方で、まるっきり遠い話だとも思いません。2005年のアメリカですら、ハリケーン「カトリーナ」の被災地で自警団が形成され、数十人とも言われる人が殺された。日本でも、「外国人が犯罪をする」という流言は阪神淡路大震災でも東日本大震災でも流れた。災害時に、こうした「刃」を行政が抑えずにあおれば、差別の暴力として何らかの形で人を傷つけたり、不利益を与えたりします。マイノリティーをターゲットにした流言は流れがちなので、その手のデマを信じないという知恵を社会の側が持っているべきだし、行政も普段から災害時のマイノリティー保護についてコミュニケーションを取って考えるべきです。そのためにも91年前の記憶は忘れずに共有しないといけない。

関東大震災当時は、「朝鮮人ならやりかねない」とみんな思った。朝鮮人以外の集団についても「暴動を起こしている」という流言がありました。社会主義者も殺された。そうしたイメージのもとは、新聞などを通じて9月1日までに作られていた。そういう意味でも、関東大震災の経験は今の私たちにとって一つの反面教師です。

レイシズムが拡大すると、何かあったときに、「あいつらならやりかねん」といった流言が出てくる可能性が高まる。書店の店頭に積まれている嫌韓・嫌中本や、ネットにあふれる「クズ民族死ね」みたいな言説が、気づかないうちにふつうの人の心の中に積み重なっていくと、たとえば万が一、中国との間で軍事衝突が起きたとき、「中国人が原発を狙っている」といった流言が広まるかもしれない。あるいは流言でなくても、レイシズムのために歪んだ認識によって、政治判断を誤る可能性がある。いや、もう既に判断を誤っているかもしれない。

■「人間として見ることを手放さない」

2013年6月30日、東京・新大久保周辺であったデモ

――殺し殺される中で、助けた人、どうしようもなかった人、殺す側に回った人、いろいろ出てきます。91年前の惨事が、現代の世に教訓として生きるとすれば何でしょう。

当時の朝鮮人は、2014年の在日コリアンとは違います。日本に来て2、3年で日本語がほとんどしゃべれない人たち。7割以上が単身の出稼ぎ労働者で、所帯持ちも少なかった。日本人社会からは「何かよく分からない外国人」と思われていたでしょう。人間的な付き合いができている人は少なかっただろうし、「新聞によるとすぐ悪さをするらしい」というイメージが流れていた。そこに「朝鮮人暴動」流言が伝わると本当らしく思えてしまうわけです。そうして、水を飲もうとして井戸を覗き込んでいる朝鮮人を見て、「井戸に毒を入れようとしている」と思い込んで殺してしまう。

そうした中でも、丸山集落(現在の千葉県船橋市丸山)のように、日頃から朝鮮人と付き合いがあったから、地元の住民が「何も悪いことはしないのに殺すことはねえ」と率先して自警団から朝鮮人を守った人々もいる。人間として見えたか、見えなかったかの違いだったのではないでしょうか。

よく見えないものは記号化されやすい。そこにヒントがある気がします。ネットで「韓国人は~~だ」と的外れなことが書かれていても、実社会で付き合いがあれば「バカじゃないの」と思うけど、実際に付き合いのない人は信じてしまう。そこに乗じて歪んだ認識をすり込もうとする人がいる。そういう流れにどう抵抗するか。

関東大震災がヒントになるとすれば、相手を人間として見ることを手放さないことだと思うんですね。いろんな事実の断片を都合良くつなぎ合わせて他民族を敵視する材料を作るのは、昔からレイシズムの常套手段だった。それによって、「殺してもいい虫けら」「自分たちを殺しに来る悪魔」のように、他民族を「非人間」として描き出す。確かに、文化的な背景が異なる人々の振る舞いに接したとき、すぐには理解できないことがありますが、そこに人間として理由があるはずだと思っていれば、理解できることもあるはずです。

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