「STAP細胞」の論文を巡って、小保方晴子ユニットリーダーの「研究不正」を認定するなど、激震が続く理化学研究所(理研)。ノーベル賞を受賞した野依良治氏が理事長を務めるなど、多数の科学者を擁する日本有数の巨大研究機関だ。
大正時代に産声を挙げ、2017年には創立100年を迎える歴史がある。仙台、つくば、名古屋、神戸など全国に8つの主要拠点を持ち職員約3500人。バイオテクノロジーから物理学まで自然科学のあらゆる分野を研究し、兵庫県佐用町には世界最高の性能を誇る大型放射光施設「SPring-8(スプリングエイト)」を擁する。
2013年度予算は約844億円で、人口20万人の自治体に匹敵。その9割以上が税金から捻出されているが、実際にはどんな組織なのか。改めて調べてみた。
■ビタミン剤から原爆まで研究した「科学者の楽園」
理研の発案者は、アドレナリンの結晶化に初成功したことで世界的な名声を博していた科学者の高峰譲吉だった。1913年(大正2年)、彼は大物実業家の渋沢栄一に次のように訴えたという。
「今日までの世界は、機械工業の時代であったが、今後は化学工業の競争の時代になる、ドイツはカイザー・ウィルヘルム協会を、アメリカはロックフェラー研究所やカーネギー研究所を設置した。日本も独創的な化学研究をやるためには、研究所を作る必要がある、力になってほしい」
(「北九州イノベーションギャラリー|Kitakyushu Innovation Gallery & Studio [KIGS]」)
これがきっかけとなり、国会の決議を経て、1917年(大正6年)に財団法人「理化学研究所」が東京都文京区に設立された。設立者総代は渋沢栄一。日本の産業発展を目的として、皇室からの御下賜金、政府からの補助金、民間からの寄付金をもとに、半官半民の組織となった。
1921年(大正10年)に第3代所長となった大河内正敏は主任研究員制度を導入。各帝国大学に研究室を置くのも自由とし、理研からの研究費で研究員を採用することを許可した。
その結果、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹、朝永振一郎など日本を代表する科学者が在籍。様々な研究業績を生み出した。朝永振一郎は後に理研時代を振り返り「科学者の自由な楽園」と評して、次のように書いている。
科学者というのは、生活面でぜいたくをしようなどという望みはあまりないのである。ぜいたくをするなら、研究面でさせてもらった方がいい。そして、理研には研究の自由があった。具体的にいえば、研究について外から指示命令などもちろんないし、その上講義の義務がない、先生気分にならないですむというありがたい特典があった。しかつめらしいはなしになるが、よくいわれる学閥などというものも見当らない。
(加藤八千代「朝永振一郎博士、人とことば」共立出版)
しかし、自由な研究をするためには莫大な予算がかかる。そこで大河内所長は一計を案じて、研究成果を積極的に商品化してその儲けを研究費に充当することにした。
「自由と平等」で組織を活性化した大河内は、そのエネルギーを技術移転による製品開発に向けた。財政難は深刻だ。「理研を食わせる」ためには商売をためらわなかった。鈴木梅太郎門下の研究員・高橋克己がタラの肝油からビタミンAを抽出するのに成功すると、直ちに量産化を命じた。高橋は夜を昼になして研究を重ね、わずか4か月で工業化に成功する。「理研ビタミン」として売り出すと大当たり。大河内は高橋に年額10万円以上の報奨金を与えた。大正末期、総理大臣の年俸が1万2千円ほどだから、10万円は現代の「億」のお金に相当するだろう。成功者には惜しみなく「分け前」を与えた。
研究所とはいえ閉ざされた「象牙の塔」にはほど遠い。理研は、ビタミン剤や合成酒、アルマイト、陽画感光紙といった「ヒット製品」を次々と世に送り出し、傘下に「理研化学興業(株)」を中心とする事業体を抱え、63社、121工場を擁する一大コンツェルンへと成長していく。
(田中角栄を歩く | Web草思)
このときに生まれた理研系のメーカーは理研コンツェルンと呼ばれ、戦前の15財閥の1つに数えられた。現在も続いているメーカーには、事務機器メーカーの「リコー」、「ふえるわかめちゃん」で有名な「理研ビタミン」、ピストンリングの「リケン」などがある。
太平洋戦争直前から、理研は原爆開発に着手していたが1945年の東京大空襲の結果、研究続行は不可能になった。まもなく広島と長崎にアメリカ製の原爆が投下。日本は終戦を迎えた。
昭和16年4月、日米開戦を目前にした陸軍は、当時、東京駒込にあった理化学研究所仁科研究室に原子爆弾の開発を正式に依頼する。仁科研究室には後にノーベル賞を受賞する朝永振一郎をはじめとする優秀な科学者が集まる。この極秘プロジェクトは仁科の頭文字から“二号研究”と名付けられた。
(テレビ朝日|原爆 63年目の真実)
■財閥解体も税金投入で復活
旧日本軍に協力していた理研は、当然のごとくGHQに目をつけられた。1946年に財閥解体をされたことで、理研コンツェルンはバラバラになった。大河内も戦犯として巣鴨拘置所に収容され、公職追放を受けて所長を辞任した。
理研本体もいったんは解散。1948年に株式会社「科学研究所」に改組する。その後、紆余曲折を経て当時の研究部門だけが分離し、1958年に特殊法人「理化学研究所」として以前の名前が復活した。2003年に文部科学省の管轄下にある独立行政法人となった。
現在では、全国に8つの主要拠点を持ち職員数は約3500人。蓮舫・参院議員が「2位じゃだめなんでしょうか?」と発言したことで話題となったスーパーコンピューター「京(けい)」も理研のプロジェクトだ。年間約800億円の巨額の予算が投じられているが、その90%以上を税金から賄っているのが実態だ。MSN産経ニュースは以下のように報じている。
本部の埼玉県和光市では脳科学、横浜ではゲノム解析、神戸ではSTAP論文筆頭著者の小保方(おぼかた)晴子研究ユニットリーダー(30)らが所属する発生・再生科学総合研究センターでバイオなどを研究。大型放射光施設「スプリング8」(兵庫県佐用町)も理研の施設だ。研究者ら3557人を擁し、予算は、年間約834億円(26年度)もの巨額が投じられている。
(MSN産経ニュース『窮地に立つ「科学者の楽園」 批判続々、他研究にまで“疑惑の目”』2014.4.2 12:58)
研究成果を商品にして売るのではなく、税金から捻出することで戦前のような「科学者の楽園」を復活させた理研。政府が最高レベルの研究を目指して新設する「特定国立研究開発法人」に指定される見込みだった。これは、研究者に対してこれまで以上に高額な報酬を支払うことができる制度だが、STAP細胞の論文に捏造問題が浮上したことで暗雲が持ち上がっている。自民党の望月義夫氏は党本部で以下のように答えた。
望月氏は理研の調査委員会が新型万能細胞「STAP細胞」の論文の不正を認定したことを受け、「指定により国民の税金が相当使われることになる」と指摘。理研の今後の対応を見極めた上で判断すべきだとの考えを示した。
(MSN産経ニュース『理研の特定法人指定「今国会は困難」 自民行革本部長』2014/04/03 18:56 )
小保方さんとSTAP細胞をめぐる問題は、創立100年を前に「理研」という巨大組織の屋台骨を揺るがしている。
ハフィントンポスト日本版はFacebook ページでも情報発信しています。
ハフィントンポスト日本版はTwitterでも情報発信しています。@HuffPostJapan をフォロー