1月23日に告示される東京都知事選に細川護煕(もりひろ)元首相が出馬することを表明。同じく首相経験者の小泉純一郎氏が「脱原発」タッグを組んで支援することを約束したことで、都知事選の構図はガラリと様相を変えた。今、注目を浴びる細川護煕氏とはどんな人物なのか。20年前の細川政権時代をよく知らない人にも分かるように、この記事では細川元首相の略歴と人柄を紹介したい。(以下、敬称略)
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■「殿様」で「政界のサラブレッド」
細川は名門の生まれで知られている。肥後細川家の第18代当主。彼の先祖は現在の熊本県に当たる肥後熊本藩54万石を代々領していた大名だった。細川が「殿様」のニックネームで呼ばれるのはこのためだ。さらに母方の祖父は、近衛文麿(このえふみまろ)元首相。まさに「政界のサラブレッド」だ。
上智大学法学部を卒業後、朝日新聞社に入社して新聞記者になる。政界に興味があった細川は、1971年の参院選では全国区から自由民主党公認で出馬して当選した。当時33歳。田中角栄元首相の田中派に所属した後、1983年には、地元の熊本県知事に転身。2期8年を務めた後に、「日本新党」を立ち上げ、中央政界に復帰した。新党ブームの幕開けだった。細川は設立会見で、こう断言した。
「今はソロを弾いていますが、やがて多数のオーケストラになります」
(浅川博忠『「新党」盛衰記 新自由クラブから国民新党まで』講談社文庫)
予言は当たった。日本新党は、自民党が分裂した1993年の衆院選で議席ゼロから35人もの大量当選を果たす。新生党の小沢一郎らと手を組み、非自民連立政権で首相に就任した。1955年から38年間もの間、与党の座に君臨してきた自民党が野党に転落。細川は、まだ55歳の若さだった。
政治改革関連法案を成立させ、今も続く小選挙区制や政党交付金を日本に導入。朝日新聞の調査では、支持率は空前の74%まで上昇した。しかし、消費税を3%から7%に引き上げる「国民福祉税」構想で急速に国民の支持を失い、佐川急便から1億円を借りていた問題を自民党に追求されて首相を辞任した。わずか9カ月の短命政権だった。
■政界引退後は陶芸家に転身
その後、細川は小沢一郎らが自民党に対抗して結党した「新進党」に参加するも、1997年に離党。新進党解党後は、鳩山由紀夫らの民主党に合流するも1998年に還暦の60歳を迎えたことを区切りとして政界引退した。
引退後は主に陶芸家、茶人として活動。祖母の住まいがあった神奈川県湯河原町の邸宅に、工房と茶室「不東庵」を構えている。
2011年の東日本大震災後は、植林活動を提唱。公益財団法人「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」の理事長を務めている。震災で出た瓦礫を活用して、土台をつくり、植樹をして、東北の海岸沿いに、300~400kmにもわたって、津波を防ぐ「防潮堤」を作ろうというものだ。
■かつては小泉氏を批判
「脱原発」で支援を受けることになった小泉純一郎との関係だが、かつてはあまり良好ではなく、小泉政権の時代には批判することも多かった。
ただし、小泉政権に対しては「私が議員在職中は、中国との軋轢を避けるため、靖国神社には参拝していない」「小泉君はアメリカの言いなりだ。私は言いなりにはならなかった」「郵政解散は政治空白を生む」と苦言を呈している。
(「内閣総理大臣ファイル」G.B.)
「政界の貴公子」と呼ばれた細川もすでに76歳。1月15日までに都知事選に出馬する意向を固めた人物の中では、ドクター・中松の85歳に次ぐ高齢だ。元首相の経験がどこまで都政で生かせるのか。「脱原発」がどのように争点になるのか注目される。
【※】細川護煕氏が都知事選に出馬することについてどのように考えますか?コメント欄にご意見をお寄せください。
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