沖縄県の名護市長選が1月12日告示された。投開票日は19日。米軍普天間飛行場の辺野古沿岸部への移設問題が、最大の争点となる。
立候補を届け出たのは2人。前県議の末松文信氏(65:自民推薦)と、再選を目指す現職の稲嶺進氏(68:共産、生活、社民、沖縄社大推薦)で、辺野古への移設に反対する稲嶺氏に、容認派の末松氏が挑戦する形となっている。
12月には仲井真弘多・沖縄県知事が政府の辺野古埋め立て申請を承認しているが、稲嶺市長は、再選したら阻止すると公言しており、今回の選挙結果が移設計画に影響を与えるとみられる。
この名護市長選を見る一つの視点として、沖縄県民ではないヤマトンチュの演説と、沖縄に住むウチナンチュによる演説、2つの思いを紹介しよう。
■小泉進次郎氏「決着がついたあと問われるのは、本土の覚悟。日本全体の覚悟」
1月9日、末松氏の総決起大会に駆けつけたのは、自民党の小泉進次郎衆院議員(神奈川県横須賀市出身)だ。
進次郎氏は、1996年に橋本龍太郎首相(当時)がアメリカと普天間返還に合意したころから約18年、普天間に関する問題が混迷、停滞したことを詫びたいという内容で演説を始めた。というのも、父・小泉純一郎氏が首相だった2006年5月1日に、普天間移設は「2014年までに完了させる」と日米合意のもと目標が設定されていたのに、履行は事実上不可能だからだ。
進次郎氏は初当選した2009年衆院選のときに、民主党の鳩山由紀夫代表(当時)による「目指すは国外、最低でも県外」という言葉が話題になっていたことを紹介。この選挙の直後に、自身が初めて国会で質問に立った時のテーマが普天間移設問題だったと述べた。
このとき進次郎氏は、当時の岡田克也外相に対して、沖縄の歌(琉歌)を紹介する。
この普天間の協議が進んだのは、当時の橋本総理のときであります。一九九七年、当時の名護市長・比嘉さんが橋本総理に贈った琉球の歌、琉歌があります。こういう歌でした。「義理んすむからん ありん捨ららん 思案てる橋の 渡りぐりしや」、これはどういう意味かというと、国に対する義理に背けないし、あれ、あれというのは住民投票の結果です、住民投票の結果も捨てられない、思案という橋を渡るのは苦しいが、やはり渡るしかない。
そして、比嘉さんは、首相官邸を訪ねて、橋本総理にこう言ったんです、首相が普天間の苦しみを心より受け入れてくれたことにこたえたい、そのかわり私は腹を切る。みずからの辞任を引きかえに、後継を岸本さんに託し、岸本さんはその受け入れを容認した。
(国会会議録「衆議院・安全保障委員会」より 2010年5月28日)
1997年12月、名護市では普天間飛行場の辺野古移設を巡って住民投票が行われた。投票率は82.45%、反対票1万6639票(52.85%)、賛成票1万4267票と、反対票が半数以上を占めた。にも関わらず、名護市は、受け入れを容認することになった。
進次郎氏は総決起大会で再び、この琉歌を紹介した上で、次のように話した。
17年後の今、比嘉元市長の思いはいかばかりでしょうか。あの時の琉歌に込めた思いが、まだ形になっていない。
そして、この17、8年間の長い間の中で、どれだけ多くのみなさんが、苦渋の決断でこの総決起大会を迎えているか。どれだけの方が、皆の前で、皆が見ていないところで、涙を流し、歯を食いしばったか。
もう、終止符を打ちましょうよ。この戦いで、多くの名護市民のみなさんの思いをひとつにして、新しい名護市を作るためのスタートを、つくっていこうじゃありませんか。
私の生まれ育った地元の街・神奈川県横須賀市は、陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊、それに加えて在日米海軍の横須賀基地を抱えている街であります。
戦前は旧帝国海軍の街であり、わたしの曽祖父もそれに関わる仕事をしていました。私の祖父は東京オリンピックの時の防衛庁長官でした。私の父は、この普天間基地のあのV字を決めた時の総理大臣であります。
昨年末、私の選挙区でもございます三浦市に、米軍のヘリが落ちました。そして今私は、沖縄の皆さんとともに、名護市の皆さんとともに、この場に立っています。
(中略)
2年前、私がまだ自民党の青年局長だったときに沖縄に来て、普天間・嘉手納・辺野古のあの海の視察をしました。今でも忘れません。あの辺野古の海の美しさを。この美しさを推進側だって、反対している人だって、みんな思いを複雑にしながら見ていることは変わりないのです。
かつての自民党、そして民主党政権、そして今の自民党と、17、8年間、みんなで必死に悩んでここまで来た。今年はその長年の積年の課題に、皆さんとともに前に進む年にしたいと思っている。
そしてそのために、みなさんが喜び合える1月19日にしようじゃありませんか。
決着がついたあと問われるのは、本土の覚悟。日本全体の覚悟です。沖縄の過重な基地負担の軽減をしなければ。その覚悟が問われるのがこれからであり、新たなスタートです。
(YouTube「005c 総決起大会 小泉進次郎」より)
■稲嶺進氏「沖縄の自立は遠のいてしまった」
一方、名護市出身の稲嶺氏は1月8日の総決起大会で、2013年の11月に沖縄県選出の自民党の国会議員団が、それまで県連が独自で唱えてきた「辺野古移設反対」から、自民党が掲げる移設容認へ意見を変えたことを指摘し、ヤマトの力に脅かされて「おまえたちは、親のいうことをきかないのか」とでもいうように恫喝されて、屈服してしまったと述べている。
石破幹事長の後ろに座らされていた、あの5名の姿が新聞に出ておりました。あんなに恥ずかしい思い。カメラの前に惨めな姿をさらされて。あれを見て、ワジワジー(腹が立つ)というよりも、悲しくなっちゃった。
そういう状況を、これまで我々は68年間、ずっと煮え湯を飲まされるような形で、虐げられてきた。68年後に今、改めて琉球処分を思い起こさせるような、そういう姿が映し出された。
そこまでやりますか。
でも、それが、今の日本の姿なんです。
4/28の(サンフランシスコ講和条約が発効した「主権回復の日」に行われた)記念式典、靖国神社参拝、集団的自衛権、特定秘密保護法。どこへ向かっているんですかね。私たちの日本は。
このような状況を、私たちは、がってん、ならん。この状況から早く脱する手立てを我々は見つけ出して、それを追求していかなければいけないと思っています。
(YouTube「稲嶺ススム市長"必勝"総決起大会 パートⅠ」より)
稲嶺氏は、政府が2021年度まで毎年3000億円台を確保するという沖縄振興費と、安倍晋三首相と打ち合わせをした仲井真知事に対して、悲しく、虚しい思いがこみ上げる状況だったと述べた。さらに、仲井真知事の言動が、誤ったメッセージを伝えることになったと憤る。
最初ウチナンチュは、(仲井真知事が)入院したというから、みんな心配していたんですよ。大丈夫かと。ところが、蓋を開けてみたら、あれは本当に、病気だったのかね。本当に情けなくなりました。
そしてその後、官邸に行ってその帰り、「驚くべき内容を提示いただいた。よい正月を迎えられる。140万人の県民を代表して感謝申し上げる」と。誰がお願いしましたか。そんなことを。
本当に何が驚くべき内容ですか。驚いたのは、ワッタ、ウチナンチュ(私達、沖縄県民)ですよ。
3000億円とかなんとかわかりませんけど、ワッタ、ウチナンチュ、そこまで卑屈になる必要があるんですかね。ネーランヨーヤサイ(ないですよね)。
(中略)
「結局、沖縄はお金か。反対するのは、その金を引き上げるためにやっているのではないのか」
誤ったメッセージを一番のティース(家の主)がやった。同じウチナンチュとして、とても許されるものではない。
いつも、沖縄の自立、経済ということをいいます。しかし、あの瞬間、沖縄の自立は遠のいてしまったと思います。
(YouTube「稲嶺ススム市長"必勝"総決起大会 パートⅠ」より)