太平洋戦争末期、アメリカが計画していた日本への原爆投下について、イギリスが同意していたことがアメリカの公文書で明らかになった。8月4日、共同通信が報じた。
機密解除されたアメリカ公文書「Foreign relations of the United States: diplomatic papers, 1945. General : political and economic matters Volume II」によると、イギリスが同意を表明したのは1945年7月4日、アメリカ・ワシントンで開かれた原爆開発の相互協力、管理方法を話し合う「合同政策委員会=Combined Policy Committee(CPC)」の席上。
イギリス側代表のウィルソン陸軍元帥が、原爆開発のための「マンハッタン計画」の責任者であるグローブス米陸軍少将らに対し、イギリス政府として公式に「日本への原爆使用に同意する」と発言したという。また、当時のチャーチル英首相がルーズベルト米大統領と、この件について近く協議することを望んでいることも付け加えている。
これに先立つ1943年8月、チャーチル首相とルーズベルト大統領はカナダ東部ケベックで会談し、原爆が完成した場合に「第三の勢力に対して、お互いの同意なく原爆を使用しない」などを定めた「ケベック協定」を結んでいた。
アメリカはワシントンでのCPC会合から12日後の1945年7月16日、米西部ニューメキシコ州アラモゴードで原爆実験に成功。同25日にルーズベルト大統領の後を引き継いだトルーマン大統領によって原爆投下指令が承認され、広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市への投下命令が出された。そして、8月6日午前8時15分、人類史上初の原爆が広島に落とされた。同9日午前11時2分、二発目の原爆が長崎に投下された。
■広島での被害
原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。
爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。
(広島市ホームページ 「原爆被害の概要」より)
原爆による死亡者数は現在でも正確にはわかっていないが、1945年12月末までに約14万人が死んだとされる。当時、広島にいた人は市民や軍人、当時の植民地から強制徴用された人々などあわせて約35万人だったと考えられている。
爆心地から1.2キロメートルの範囲内にいた人はその日のうちにほぼ50%が死亡。それよりも爆心地に近い地域での死亡率は80~100%と推定されている。また、投下直後に救護業務などで爆心地近くに入った人も残留放射線の影響を受けた。
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